四大文明から大阪風景への回帰 vol.1

連載コラム「中村貞夫とその芸術」第2回

 

中村貞夫の藝術 四大文明から大阪風景への回帰 vol.1

 

橋爪節也

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河のある街から

 

 海へと注ぐ運河の街……大阪のシビックセンターである中之島の西端で堂島川と土佐堀川が合流し、安治川と木津川に再び分流して港湾地帯へと向かう。現在の西区川口、旧町名でいえば大阪市西区古川町に昭和9年(1934)、中村貞夫は生まれた。

 

 治水の歴史を重ねてきたのが“水都大阪”である。母なる淀川は古代から幾重にも蛇行し、雨期や台風のたびに氾濫した。明治18年(1885)の大洪水の被害から、明治43年(1910)に全長約10㎞、幅約800mの新淀川が一直線に大阪湾へと開鑿されたことは有名だが、中村の故郷も二世紀さかのぼる治水事業と関係する。貞享元年(1684)の河村瑞賢による安治川開鑿である。

 

「摂洲大坂画図」(部分)宝暦9年
中央が富島

 古地図を参照すると分かるが、新しく建設された安治川周辺には、曲がりくねっていた旧来の川筋が三日月湖のように残り、その一つが古川であった。川口2丁目付近で安治川から南へ分岐して西に流れ、川口4丁目の国津橋交差点付近で再び安治川に合流する。古川と安治川に囲まれた島が富島で、古川町はその対岸であった。「新制作展」に中村が初入選した同じ昭和27年(1952)に古川は埋め立てられたが、川口は明治元年(1868)に外国人居留地が開かれた大阪開港の地であり、基督教会の聖堂(大正9年竣工、登録有形文化財)が、かつての面影を彷彿とさせる。

 

幼稚園児の頃(右側)

 播磨屋を屋号とした古い商人が中村の生家である。祖父の代から古川町で鉄工所を営んだ。大阪は商業の街であると同時に、ものづくりの工業都市である。近代化で湾岸や川沿いに工場の煙突が林立した。幼稚園頃の写真からよみがえる画家としての中村の記憶も、工業都市の少年らしい。写真には、鉄工所に立てかけられた鉄板に白いチョークで飛行機を描く姿が写されていた。中村は自身の原風景にこの鉄工所をあげ、茶褐色の大画面を描くのも、幼いときから鉄さびの赤茶色に馴染んだことによるかもしれないと語る。

 

 祖父は鉄工所を創業した穏やかな人柄で、晩年は浄瑠璃などを楽しむ風雅な人物であったという。日本の近代洋画を代表し、大阪都心の島之内で育った小出楢重(1887~1931)の実父も素人浄瑠璃に打ち込んでおり、西洋文化をとりいれた洋画家周辺に、よき時代の芸能文化が漂っていたことは、小出をはじめ中村に至る大阪の文化的伝統だろう。

 

 余談だが、安治川筋には他にも実家が鉄工所の著名人がいる。住宅問題を専門とする建築家で、大阪万博で「お祭り広場」の計画に参画した京都大学名誉教授・西山卯三(1911~1997)である。実家は安治川北側の此花区西九条で鉄工所を経営し、『安治川物語 鉄工職人卯之助と明治の大阪』(日本経済新聞社、1997年)に詳しい。

 

 古代難波宮からの歴史を有する大阪の河に近い街に育ったことが、還暦を迎えてからはじまる「世界四大文明」をテーマとした連作にどこか結びつく。巨大な河川流域に発展したメソポタミア、エジプト、インダス、黄河の四大文明を取材するに際して、中村のテーマが、文明誕生の地に滔々と流れる河川の源流を探り、その“初原”を描くことであるのは偶然だろうか。そして四大文明を終えて始められた近作が、大阪に回帰した「大阪風景シリーズ」である。次回以降のコラムでは近現代の大阪の美術とからめ、「世界四大文明シリーズ」から「大阪風景シリーズ」へと至る中村貞夫の画業とその周辺をみることにしよう。

 

本稿は『中村貞夫画集 第十巻』(2018年2月)に掲載された「Sadao.N 中村貞夫の藝術 四大文明から大阪風景への回帰。モダニズムの継承としてのー」を加筆修正したものです。

 

橋爪節也…1958年大阪市に生まれる。専攻は日本・東洋美術史。東京藝術大学美術学部助手から大阪市立近代美術館建設準備室主任学芸員を経て大阪大学総合学術博物館教授・大学院文学研究科(兼任)。前総合学術博物館長。編著『大大阪イメージ-増殖するマンモス/モダン都市の幻像-』(創元社)、監修『木村蒹葭堂全集』(藝華書院)。編著『大阪大学総合学術博物館叢書12 待兼山少年 大学と地域をアートでつなぐ《記憶》の実験室』(大阪大学出版会)など。

 

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