四大文明から大阪風景への回帰 vol.2
連載コラム「中村貞夫とその芸術」第3回
中村貞夫の藝術 四大文明から大阪風景への回帰 vol.2
橋爪節也
画歴—デカルトとの出会い
画業の出発点として大学時代に至るまでを少し詳しく追いたい。中村の学歴でユニークなのは、戦後、大阪市が設立した特別教室に通学していたことである。特別教室は、市が英才教育のためにIQテストを実施し、優秀な生徒40数名を東区(現・中央区)の中大江小学校に集めたクラスである。住まいのある学区の大阪市立本田小学校に在籍しながら中村は、週に1回、胸にOTK のワッペンを付けて中大江小学校に出かけた。昆虫採集や古寺の見学など、校外に出かけることも度々あったという。後に《人物》のモデルになった
素粒子研究の高松邦夫や、作家の筒井康隆も特別教室の同級であった。中村は筒井らと大阪市立東中学校に進学する。中学時代は演劇活動やスポーツに興味を持ち、劇団「民芸」に子役で出演した。筒井康隆は同志社大学演劇部で活躍している。
大阪府立大手前高校に入学し、油彩画を一年生の時からはじめる。美術教師の浜口忍翁は、東京美術学校(現・東京藝術大学)図画師範科の出身で、パウル・クレー風の絵を描いて美術室に自分の大作を置き、授業の合間に「新制作展」に出品する作品を描いていた。また、『白珠』の同人として短歌でも活躍し、歌集や短歌評論集『斜面の上の芸術』(短歌新聞社、1982年)を刊行したり、後年、毎日文化教室の短歌の講師もつとめた。中村は、美術室の机の上にピンで留められていた浜口の短歌の一節「……マチスの額が掛かりおり」を記憶している。
中村は一人で制作するタイプで団体行動に積極的ではなかったが、美術部に入部して、浜口から油彩画の古典技法であるグレージングを学ぶ。多めの画用油で絵具を溶いて塗り、乾燥してから何度も塗り重ねることで下の色が透けて浮き上がり、色彩の深みや光沢感を出す方法である。さらに大手前高校美術部は、夏期講習会に小磯良平(1903~1988)、伊藤継郎(1907~1994)を招くなど活動に力を入れていた。それが中村の人生に大きな影響を与える。
小磯は神戸市の貿易商・岸上家に生まれ、東京美術学校在学中の大正15年(1926)《T嬢の像》(兵庫県立美術館所蔵)が帝展特選を果たす。フランスに留学して群像表現を生涯のテーマとし、戦後は東京藝術大学教授として後進を指導して、赤坂迎賓館の壁画《絵画》《音楽》を制作する。中村の高校三年の担任である数学教師の岸上恭平は小磯の実弟である。伊藤は、大阪の紡績会社の重役の家に生まれ、松原三五郎の天彩画塾、赤松麟作の赤松洋画研究所に学び、鍋井克之の知遇を得て信濃橋洋画研究所にも通った。二科展を経て第6回の「新制作派協会展」で会員に推され、後に現在の京都市立芸術大学教授となる。
中村は早くも高校三年生の昭和27年(1952)、《広場と車庫》《風景のコンポジショ
ン》で「新制作展」に初入選する。講習会で中村の作品に目を留めた伊藤の勧めでの応募であった 1) 。《広場と車庫》について中村は、暗い感じがする作品だが、審査を担当した会員の萩太郎(1915~2009)が、講評で「東洋的な色彩」をもっていると評したことを印象深く語る。初期の作品では好んで緑色を用いた。
「新制作協会」は、昭和11年(1936)の文展改組で美術界が混乱したとき、「反アカデミック芸術精神に於て官展に関与せず、我々は独自の芸術的行動の自覚に於て我々の背馳すると認めたる一切の美術展に関与せず」と主張し、創作の自由と純粋さを求めて結成された団体である。猪熊弦一郎、伊勢正義、脇田和、中西利雄、内田巌、小磯良平、佐藤敬、三田康、鈴木誠ら洋画家が参加し、結成時は「新制作派協会」の名称であった。
昭和14年(1939)に本郷新、舟越保武、佐藤忠良、柳原義達ほか彫刻部が設けられ、昭和24年(1949)に建築部ができて、丹下健三、吉村順三、谷口吉郎、前川国男らが加わった。中村が初入選する前年の昭和26年(1951)、日本画部が出来て、現在の「新制作協会」に改称する。そこには戦後復興期の清新な気がみなぎっていただろう。改称直後の同会の新しい出発に当たる時に、将来を嘱望される青年画家として中村は「新制作協会」に迎えられたのである。なお、日本画部は昭和49年(1974)に会員退会のため解消し、現在、同会は絵画、彫刻、スペースデザインの三部門から成る。
こうして中村が活動を開始した昭和20年代の大阪の美術状況は、どのようなものだったろうか。
終戦後、大阪市立美術館は米軍に接収され、美術館の組織そのものは難波の精華小学校に間借りしていた。同じ天王寺区の大阪赤十字病院は朝鮮戦争のOSAKA ARMY HOSPITAL(連合国大阪陸軍病院)として、昭和30年(1955)まで接収がつづいたが、美術館の接収は昭和22年(1947)に解除された。しかし、市民の手に戻ったとはいえ、まだまだ本格的な展覧会を開催できる状態ではなかった。
翌23年(1948)、新大阪新聞社と「日本アヴンギヤルド美術家クラブ」主催で「モダンアート展」が阿倍野の百貨店で開催される。出品した「日本アヴンギヤルド美術家クラブ」の会員のうち、大阪ゆかりに長谷川三郎、中村眞、植木茂、山口正誠、吉原治良らがいた。彼らの多くは戦前から活動し、戦前の大阪モダニズムの系譜をひく作家たちである。
同展パンフレットに岡本太郎は「アヴァンギャルド美術について」を寄稿し、ニューヨーク近代美術館の初代館長アルフレッド・バー・Jrにならって「モダンアート」が、人間の内面性を曝く「超現実主義(Surrealisme)」と、純粋なフォルムで造形的に組み立てられる「抽象絵画(Abstract)」の両端へ先鋭化したとする見解を示している。
復興が進むにつれて、新しい美術団体も結成され、美術館で様々な展覧会が開催されていく。昭和25年(1950)、彫刻家の池田遊子を中心に「生活美術聯盟」が結成され、洋画の小出卓二、日本画の竹内無憂樹、デザインの河村運平、写真家の山澤栄子、建築家の上野伊三郎や石川純一郎、前衛生花の小原豊雲、中山文甫、舞台装置の大森正男らが参加する。翌昭和26年(1951)には、大阪で「デモクラート美術家協会」が結成され、瑛九、森啓、泉茂、郡司盛男や、デザイナーの早川良雄、山城隆一、写真家の棚橋紫水、河野徹らが参加した。昭和27年(1952)、白髪一雄、金山明、村上三郎らが「0会」を設立、「現代美術懇談会」(通称ゲンビ)も結成され、昭和29年(1954)に「具体美術協会」が誕生した。日本画の領域でも、画壇の権威主義を批判し、表現の自由を追求した「パンリアル美術協会」が、第2回展(1949)、第5回展(1950)、第9回展(1952)を大阪市立美術館で開催する。これらは戦時中の翼賛的な団体経営や権威主義を否定し、新しい民主的な時代にヒューマニズムを回復しようとする動きでもあった。
高校生の中村が、目まぐるしいほどの新しい美術団体設立に関心を寄せていたとは思えない。多くを学んだのは美術書や画集、美術館での西洋名画の展覧会からであったろう。けれども初期の作品が生まれる時代背景や、その後の活動を見ていくためには、同時代の大阪の美術の動向と空気を理解しておく必要がある。
年代的に中村が会場で作品に接したと思われる展覧会では、高校二年生の昭和26年(1951)、大阪市立美術館で開かれた二人の巨匠の展覧会があげられる。同年5月に「アンリー・マチス展」(東京国立博物館・読売新聞社共催)が開かれて17万人が来場した。9月の「ピカソ展」(読売新聞社・大阪新聞社・産業経済新聞社共催)は入館者4万人であったが 2) 、美術館南館で「遊子個人展」を開いた池田遊子が、ロビーに「七百貫のセメント製大裸婦像」を展示しようとして断られ、「ピカソが芸術家ならおれも芸術家だ」と大見得を切ったエピソードが残る 3) 。
《広場と車庫》《風景のコンポジション》はじめ、高校時代の作品は、具象的なモチーフをとりあげながらも、デフォルメを加えて画面を構築的に組み立て、暗い色調に幻想的な雰囲気も漂わす。こうした傾向にはクレー風を描いた浜口の影響や、画集や展覧会からの刺激もあるだろう。
大学進学を迎えて中村は、担任の岸上から実兄の小磯良平宛てに受験用のデッサンを見てもらうよう添え書きのある名刺を渡されるが、訪問はそのとき果たせなかった。中村が進学先に選んだのは美術大学ではなく大阪大学文学部である。大阪大学は、学制改革で昭和24年(1949)、文学部・法経学部・理学部・医学部・工学部と一般教養部からなる新制大学として発足したばかりであった。市の特別教室や改称した「新制作協会」、新制大学など、戦後変革期の新風を受けて、多感な青年期を中村が過ごしたことがうかがえる。
興味深いのは、美術学校や画塾など美術の専門教育機関ではなく、美術とは無関係な学部などに進学したなかに、モダニズムを受けて戦前戦後に大阪で指導的な役割を担った画家たちがいることである。具体美術協会を創設するとともに吉原製油社長であった吉原治良(1905~1972)は、関西学院高等商業学部を卒業している。春陽会で活躍した版画家・前田藤四郎(1904~1990)も神戸高等商業学校(現・神戸大学)で美術部に属した。前田の卒業論文「近代広告に表れたる色の震動」 4) は、勃興してきた商業美術の領域に属するものである。前田は、出身校を尋ねられると「ぼくは算盤学校の出身やからなあ」と話すのが常だった。万博美術館の府立の現代美術館としての再開を要望する団体の初代の会長を吉原がつとめ、二代目を前田が引き受けている 5) 。
文学部で中村はフランス文学を専攻するが、特に哲学の澤潟久敬教授(1904~1995)の演習で学んだデカルト(René Descartes、1596~1650)に触発される。澤潟は、京都帝国大学哲学科で九鬼周造に学び、フランス政府招聘留学生として渡仏して、アンリ・ベルクソンを学んで哲学と医学を結びつけ、新しい学問領域を開拓した。文学部の教授であるが大阪大学より医学博士号も授かっている。
中村によると、理性を絶対視する合理主義者のデカルトだが、その著作をテキストとした澤潟の講読演習で、デカルト自身が、理性を絶対視しながらも、間違いやすく危うい存在だが、頼れるものは「感覚」であるとする考えに移行したことを学んだという。また、澤潟から「デカルトは、神の存在を証明してから神を信じたのか、或いは、その前から信じていたのか」と質問されて、「証明する前から信じていたと思う」と返答したところ、澤潟は「私もそう思う」と語った。
演習で用いられたのは、デカルトの『哲学原理』の第1部「人間認識の諸原理について」ではなかったか 6) 。有名な「我思惟す故に我あり」(ego cogito, ergo sum)の命題も登場するし、「感覚すること」についても、「知り・意志し・表象すること」と同じく思惟することと同じと論じられている。ここでデカルトは、先入観に支配された「言葉」を過信して、事象を決めつけて語ることを戒め、事物そのものに謙虚に向かうことの重要性を説くのである。人間には「苦痛・色・味等、我々を刺激する」ものとしての感覚があること、そうした「感覚の知識」のあることを認めた上で、先入観や「言葉」で混乱している思惟と比較し、「明晰判明なかたち造る習慣を身につける」べきとしている。
中村の理解が正しいかは別の問題として、少なくとも当時の中村が理解し、魅了されたデカルト哲学の根幹は上記のようなものであった。中村は第一にデカルトの理性主義に傾倒する。そして一見矛盾するようだが、理性主義を徹底した形で「感覚」を重視するデカルトの姿勢にも魅せられた。現在まで中村の創作活動において動かしがたいテーゼとなっている。
次回は、大阪大学卒業後に手掛けられる《機械》などの作品から、60歳を超え始まる「四大文明」シリーズにかけての画業を概覧していこう。
1)『中村貞夫画集 1976-1978』伊藤継郎序、1979年発行
2)『大阪市立美術館50年史』大阪市立美術館、昭和61年
3) 拙稿「昭和二十年代 池田遊子の“熱い”時代―遊子論断章―」、生誕百年記念『池田遊子展』図録所収、平成21年。
4)拙稿「T.MAEDAの見たもの-大大阪のモダニズムと前田藤四郎」『前田藤四郎と川上澄生―モダニズム版画の実験室』所載、鹿沼市立川上澄生美術館、2016年
5)現在の国立国際美術館として開館した。
6)デカルト『哲学原理』桂寿一訳、岩波文庫、1964年/2010年改訂版。
本稿は『中村貞夫画集 第十巻』(2018年2月)に掲載された「Sadao.N 中村貞夫の藝術 四大文明から大阪風景への回帰。モダニズムの継承としてのー」を加筆修正したものです。
橋爪節也…1958年大阪市に生まれる。専攻は日本・東洋美術史。東京藝術大学美術学部助手から大阪市立近代美術館建設準備室主任学芸員を経て大阪大学総合学術博物館教授・大学院文学研究科(兼任)。前総合学術博物館長。編著『大大阪イメージ-増殖するマンモス/モダン都市の幻像-』(創元社)、監修『木村蒹葭堂全集』(藝華書院)。編著『大阪大学総合学術博物館叢書12 待兼山少年 大学と地域をアートでつなぐ《記憶》の実験室』(大阪大学出版会)など。