四大文明から大阪風景への回帰 vol.3

連載コラム「中村貞夫とその芸術」第4回

 

中村貞夫の藝術 四大文明から大阪風景への回帰 vol.3

 

橋爪節也

 

 

《機械》《燔祭》から四大文明へ  

 

古川町の自室をアトリエに

 昭和32年(1957)大阪大学を卒業する。大学の美術部でも孤高の制作態度を堅持し、実家で制作に励んでいたようだ。卒業論文は、モリエールの喜劇「人間嫌い」の考察であった。中村は楽天的な性格もあって、論文のテーマを選ぶ際も、深刻な文学より喜劇などドラマが親しみやすかったという。

 

 卒業後、昭和34年(1959)から翌年に《機械》シリーズを描く。実家が鉄工所であったためか、絵のモチーフに身近な機械を選ぶようになったとする。戦前のモダニズムの延長線上にあって、デフォルメされた明快な形態を組み合わせて画面構成し、抽象志向も認められる作品である。昭和35年(1960)の《機械》では、中村が好んだ緑の色調で全体が統一される。

 

 しかし本人は、冷たい感じの緑色を多用することに限界を感じ、パレットから緑の絵の具を省くことを決心する。使用できないように物理的に絵の具を排除するのだが、こうした問題意識の設定と実行力に、まず方法論を先鋭化させる中村らしい理性主義が感じられる。

 

「機械」1960年
油彩・ボード 60.6×72.7cm

 昭和36年(1961)からは《燔祭》シリーズを始め、昭和43年(1968)まで続けている。燔祭とは、ユダヤ教などで生け贄の動物を祭壇上で焼き、神に捧げる儀式で、『旧約聖書』の「創世記」にある息子イサクを生け贄に捧げようとするアブラハムの物語が有名である。トーマス・マン『ヨゼフとその兄弟たち』に続けて『旧約聖書』を読み、燔祭という言葉を知った。「美」は神への捧げもの、まさに燔祭であると思う気持ちと、「燔祭」という言葉の音や字形のイメージが、中村のなかで合致し、連作に打ち込んだという。

 

 このシリーズで中村は、浮き彫りや線刻された装飾古墳の壁画のような、緩やかに動きある幾何学的なフォルムを、絵の具を盛り上げて画面に構成する。装飾古墳でも赤色顔料が用いられるが、アニミズムを思わせる粘りと力強さが画面に漂い、先に述べたように緑色を意識的に避け、補色の赤い色を基調とする。絵の具は複雑に渦巻き、航空写真で市街地や田園の集落を見下ろしたような印象も生む。

 

 モチーフを平板に簡略化するとともに、絵の具を厚く塗ってザラッとしたマチエールを形成する画風は、師事した伊藤継郎の《白い花と鉢》(1956)、《たいわんどじょう》(1958)、《阿蘇の赤牛》(1961)なども想起させ 1) 、伊藤にも触発されたのかもしれない。ただし伊藤は、あくまで具象的なモチーフをユーモラスにデフォルメするのに対して、《燔祭》は、赤い絵の具が供物を燃やす焔のように翻って抽象度が高く、理念的なものを感じさせる。

 

「燔祭」1963年
油彩・ボード 146×129cm

 また、絵の具をそのまま厚塗りする伊藤に対し、《燔祭》ではペインティングナイフで絵の具を重ね、二、三センチもの厚さになっている場合もあるが、基本的に薄く絵の具を塗り重ねて深いマチエールを表現する。《燔祭》での塗り重ねの原点は、高校時代に学んだグレージングにあるだろうが、浜口が塗った絵の具を布で拭き取ったり、擦りつけて調子を出すのに対し、中村は画面が汚れた感じになることに違和感を感じて、透明絵の具と不透明絵の具を交互にサラッと塗り、空間表現を補佐するものとして地層が重なるような画面づくりを探究した。

 

 中村は、こうして出来上がる絵の具の層を地学で言う「断層」として横から見たらどんな様相を呈しているかに興味があると言い、好んでそれを洋菓子のミルフィーユ(mille-feuille)に譬える。仏語でmille は「千」、feuille は「葉」で、mille-feuilleも「千枚の葉」の意味となる。《燔祭》では下層に強い原色を用いており、ペルシャ絨毯等の縦糸と横糸の織りなす複雑な色調にも通じる効果をあげている。

 

 マチエールに関して言うと、日本近代の洋画家にとって、西欧文明の象徴である油彩画をどのように骨肉化するかは大きな課題であった。同じ大阪出身の佐伯祐三(1898~1928)は、野獣派の巨匠モーリス・ド・ヴラマンク(1876~1958)にアカデミックと叱咤され、油彩画の重厚な物質感が希薄なことを指摘されて変貌する。《煉瓦焼》《郵便配達夫》(共に大阪中之島美術館所蔵)では、重厚な下地に透明感ある絵の具を重ね、深いステンドグラスのように発色する画風に達している。ちなみに実姉が弁天町の素封家に嫁いだ佐伯は、中村の実家近くの川口付近で《汽船》(大阪中之島美術館所蔵)を描いている。

 

 《燔祭》のシリーズが制作された1960年代の大阪は、復興期も過ぎ、やがて開催されるエキスポ’70・大阪万国博覧会開催に向けて、街に活気がみなぎっていた。阪大で大阪万博のシンポジウムを開催したとき、万博の企画に深く携わった小松左京(1931~2011)は、インタビューで、文化芸術の博覧会として世界に戦後日本の復興を発信することを意図したと語っている 2)

 

 美術においても、吉原治良を中心とする「具体美術協会」が活動し、昭和37年(1962)には、大阪市北区宗是町33(現・北区中之島3丁目)に具体の作品を常設展示できる施設「グタイピナコテカ」が開設された。「具体美術協会」は、フランスの評論家ミシェル・タピエによって、アメリカの抽象表現主義に対峙する欧州の「アンフォルメル」に近い存在として評価される。中村も「グタイピナコテカ」での展覧会に足を運び、会員とも親交があった。少し年長だが、具体の有力メンバーである白髪一雄(1924~2008)も、かつて伊藤継郎に学んで新制作に参加し、嶋本昭三(1928~2013)とは後に宝塚造形芸術大学(現・宝塚大学)で同僚となる。

 

 中村自身は、直接の「アンフォルメル」の影響は否定するが、時代の空気として《燔祭》シリーズには、「具体美術協会」などが活躍した大阪の活気ある時代の気分が読み取れないでもない。ただ、「具体美術協会」の第一期の会員と目される白髪や嶋本、元永定正(1922~2011)は、アクションそのものを画面に定着した。天井に吊り下げられたロープに掴まって白髪は床に広げられたカンヴァスに足で絵の具を塗りつけ、嶋本は絵の具を詰めた瓶を投擲し、割れてカンヴァスに飛び散ることで作品を制作する。熱い身体運動そのものを制作手段として画面に定着するやり方は中村には見られない。あくまで理性的に画面を構築していく。

 

 中村の創作傾向は、洋画以上に、顔料と膠を用いて描く日本画などに通じるかも知れない。本画集第6巻で山村悟氏も触れるが、《燔祭》が出品された昭和40年(1965)の梅田画廊での第二回個展案内状で小磯良平は、 「その性外柔内剛の大阪ボンチ、阪大のフランス文学を学んだ秀才でもある。ところが絵を見ると、東洋の古典に向きあっている様に錯覚するのである。(中略)絵は粗面であって感覚は柔かく、組み建てはがっちりしているが、何となく豊醇である。本当の日本的な絵と云う部類にはいるとおもうのだが、どうであろう」 と中村について記している。

 

 「新制作展」初入選の評で萩太郎が「東洋的な色彩」としたことにも通じる見方だろう。三上誠(1919~1972)や下村良之助(1923~1998)など「パンリアル美術協会」の画家をはじめ、戦後の新しい日本画が意識したマチエールのあり方や画面構成とも通じるようにも思われる。日本画で用いられる岩絵の具の多くは、文字通り岩石を粉砕して絵具にしたもので、黄色の黄土や白色の鉛白などは大地そのものであった。中村にとってマチエールの問題は、虹色に分解される色彩を越えて、光そのものの表現へと発展していく。

 

 大阪万博前年の昭和44年(1969)、中村は新制作協会会員に推挙され、翌昭和45年(1970)年に安井賞展に出品した。画風が変化するのは、1970年代後半からである。自然に興味を抱き、大峰山系や種子島、四万十川、土佐海岸などをモチーフに大画面を展開するようになる。

 

「四万十川1」1980年
油彩・ボード 162×240cm

 自然への関心は、三十代に西行の『山家集』を読み、吉野の桜を描いたことがきっかけであったという。大峰山系へも入り込み、霊峰の弥山や大杉谷の瀧を描いたことで、知人からは静止的だった画面が動き出した評された。つづけて種子島、四万十川、土佐海岸などを描き、水が大きなテーマとして浮上した。昭和57年(1982)の梅田近代美術館での個展で発表した四万十川、土佐海岸のシリーズは、それまで用いた茶色を画面から省き、イエロー・オーカーで描くことで絵が輝いているように感じられたという。このころ中村は〈風景〉と〈自分〉と〈画面〉との相関関係について、画家であり表現者である〈自分〉を通過しないと〈風景〉は〈画面〉に表現されないと考えていたが、最近では〈自分〉というフィルターを通せば通すだけ、作品が曇ると考えるようになった。むしろ〈自分〉は〈風景〉と〈画面〉をそのまま結ぶ、「素通しの筒」でありたいと考えるようになる 3)

 

 48歳の昭和60年(1985)以降、富士山の四季をとらえた《富士》のシリーズを、梅田近代美術館の個展に継続的に発表した。12年間で油彩画の大作86点を描いたという。大地のような物質感と、ミルクのように白く耀く大画面に雄大な風景を描く画風を確立する。《富士》シリーズの最終作において中村は、封印していた緑色を画面に復活させた。

 

 《富士》連作について乾由明は、芳醇な画情を創り出しているとし、中村が富士山に対して特別の「ヴィジョンの瞬間」を体験したかもしれないと指摘する(『中村貞夫画集』第3巻)。「ヴィジョンの瞬間」と言う言葉は、美術史家ケネス・クラークが提起するもので 4)、ダ・ヴインチの渦巻く水、デューラーの手、ファン・ゴッホの向日葵など、平凡な事物であっても、画家や詩人が生命が燃え上がるような強烈な「ヴィジョン」を感じたならば、それを描いた絵画には、他のモチーフを描くよりも深く豊かな精神のひらめきが認められるというものである。

 

 宝塚造形芸術大学(現・宝塚大学)教授となった60歳の平成7年(1995)から、世界四大文明を題材とした連作へ突入していく。四大文明の第一シリーズは、初めての海外旅行でもあった「エジプト・シリーズ」で、一年間かけてナイル川の源流から河口までの約6,700㎞を取材旅行し、ウガンダやエチオピア、スーダン、エジプトを巡って数百枚をスケッチした。スーダンでは摂氏50度にもなる猛暑の砂漠でスケッチしたという。つづいてパキスタンを拠点に「インダス・シリーズ」にとりくむ。平成11年(1999)に「新制作京都展」にて「ナイル・シリーズ」の大作19点の特別展示、平成16年(2004)に兵庫県立美術館原田の森ギャラリーにて「インダス・シリーズ」の個展を開催した。

黄河シリーズの個展2012年
中国国家博物館(北京)

 「黄河シリーズ」は70歳を越えてスタートし、平成22年(2010)に兵庫県立美術館での「黄河シリーズ」の個展開催、平成24年(2012)、北京の中国国家博物館での日中国交正常化40周年記念事業「黄河-中村貞夫展」で公開された。最後の「メソポタミア・シリーズ」は、政情不安のためチグリス川とユーフラテス川の取材中、装甲車とすれ違ったり、滞在中に退避勧告が出るなど、緊張感が高まって取材継続に難しいことがあったが、ノアの方舟伝説のアララト山にまで到達する。

 

 これまでのコラムでは中村の画歴を概観した。次回は、「四大文明」シリーズに貫かれている中村の絵画の方法論について話を進めよう。

 

 

 

1)『伊藤継郎画集』伊藤継郎画集刊行委員会、1990年

2)大阪大学21世紀懐徳堂編『なつかしき未来「大阪万博」= Nostalgic Futures of EXPO’70 : 人類は進歩したのか調和したのか』創元社、2012年。

3)中村貞夫「初めて見る風景」1984年2月、『中村貞夫画集』第三巻所収、1985年。

4)『視覚の瞬間』 北条文緒訳 法政大学出版局・叢書ウニベルシタス 1984年。

 

本稿は『中村貞夫画集 第十巻』(2018年2月)に掲載された「Sadao.N 中村貞夫の藝術 四大文明から大阪風景への回帰。モダニズムの継承としてのー」を加筆修正したものです。

 

橋爪節也…1958年大阪市に生まれる。専攻は日本・東洋美術史。東京藝術大学美術学部助手から大阪市立近代美術館建設準備室主任学芸員を経て大阪大学総合学術博物館教授・大学院文学研究科(兼任)。前総合学術博物館長。編著『大大阪イメージ-増殖するマンモス/モダン都市の幻像-』(創元社)、監修『木村蒹葭堂全集』(藝華書院)。編著『大阪大学総合学術博物館叢書12 待兼山少年 大学と地域をアートでつなぐ《記憶》の実験室』(大阪大学出版会)など。

 

 

 

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