竹中哲也「帝国大学の画家たち 前編」
連載コラム「中村貞夫とその芸術」第14回
帝国大学の画家たち 前編
竹中哲也
中村貞夫は大阪大学を卒業した画家です。あらためて書いたのは、ある「画家」や「美術家」に関心を抱いたとき、例えば展覧会の図録や画集を見て、国立の総合大学出身という経歴を目にすることが珍しいのではないかと考えたからです。本コラムではこの点に注目したいと思います。
今日、日常ではあまり聞かない言葉となっていますが、大阪大学は旧「帝国大学」の一つ。帝国大学とは、最初に1877年(明治10)に創立された東京大学が1886年の帝国大学令によって改称されたものです。そして1897年の京都帝国大学(現、京都大学)創設に伴って東京帝国大学へと変更されました。1907年に東北帝国大学(現、東北大学)、1910年には九州帝国大学(現、九州大学)、1918年(大正7)に北海道帝国大学(現、北海道大学)が設立されました。このあと京城帝国大学、台北帝国大学が設置されましたが廃止されています。そして1931年に大阪帝国大学、1939年に名古屋帝国大学(現、名古屋大学)が設置され、現在にいたるのは七つの旧「帝国大学」です。第二次世界大戦後の新制大学発足によって廃止されたのち、1949年に国内の旧帝国大学は、新制の国立大学となりました。

こうした動きの中で中村は、大阪府立大手前高等学校在学中(1950-53)に画家になることを志します(図1)。三年次の担任が師となる洋画家、小磯良平(1903-88)の実弟の岸上恭平であった縁も重なり、岸上は教え子の進む道について兄の小磯に助言を仰いでもいます。画家になる道として小磯の母校である東京藝術大学の受験も視野にありましたが、中村は大阪での制作活動を望んでいたこと、すでに新制作展に入選を果たしていたため出品を続けたい意思もありました。このターニングポイントにおいて小磯から贈られた言葉は、進路を決断する背中をおします。その言葉は「これからの画家には教養が大切」というものです。そして中村は大阪大学への進学を決めたのです。

1953(昭和28)年に大阪大学に入学し、文学部のフランス文学専攻において、とりわけ実証主義について学ぶ中、小磯の言う教養を身につけていったと言えます(図2)。それは小磯が回顧的に書いた次の文からも知ることができます1)。
中村君は高校生の頃から絵を新制作に出品していたのではないかと記憶している。だから案外長期の出品歴を持っているはづである。高校生当時から現在の絵の型式を踏んでいた。勿論途中の進展はあったとしても彼らしい一徹な性格を持っている。
彼はその性外柔内剛の大阪ボンチ、阪大のフランス文学を学んだ秀才でもある。ところが絵を見てみると東洋の古典に向き合っている様に錯覚するのである。仏文学と仏教美術、何かなぞの様であるけれども充分関連があるとも云えそうである。

画家となった中村に「秀才」という言葉を送った時、小磯が見た作品は「燔祭」シリーズだったと考えられます。フランス文学、哲学という西洋的思想や知を吸収した中村がインスピレーションを得たのは、旧約聖書に登場する神に信仰を示す儀式、「燔祭」(図2)でした。「美は神への捧げ物」と考えた中村にとって絵画制作と重なるテーマだったのです。
在学時の仏文学講座は1950(昭和25)年に設けられており、同年に助教として着任、のち1954(昭和29)年に昇任した和田誠三郎教授と、翌年に着任した原亨吉助教授が中心となっていました2)。1955(昭和30)年度には、和田教授は「パスカルとその時代」や、演習「G. Flaubert: Madame Bovary」など、原助教授は特殊講義「現代フランス文学の諸問題」や、演習「Baudelaire: Les fleurs du mal」などを担当しています。また、仏文学講座は開講当初から講義を「仏文学」、「仏語学」、「フランス思想」の三本立てとしており、おそらく思想の担当として、哲学哲学史(第一・第二)講座から沢瀉久敬教授が来講し、演習「Descartes: Méditations philosophiques」を開講しました。中村は画家として活躍するようになったのち、大学時代について次のように述懐しています3)。
当時、原亨吉先生は助教授で、「悪の華」の演習をされていました。分っている事と分っていない事を厳密に区別され、学生の前でそれを明言される先生の御姿勢には、大学の先生はかくあるものか驚いたものでした。
まさに上述の、ボードレールの『悪の華』をテーマとした演習で学んでいたことがわかります。また「フランスの実証主義を学び得たことは幸福でした4)」と振り返っていますが、沢瀉教授のデカルトの講義でのことでしょう。デカルトの分析の中で登場する、「神」や「感覚」、「理性主義」といった知識、思想は芸術的理念を支えるものとなっていくのです。
大学時代も制作活動の中心は自宅の自室でしたが、学生活動として美術部に入部したようです。この時期のエピソードとして、中村が描いたシュールレアリスム風の作品を大阪大学総長に見られたというものがあります。当時の総長は今村荒男教授で、東京帝国大学伝染病研究所から、大阪帝国大学医学部の内科学第三教室に着任し、1940(昭和15)年に微生物病研究所長、そして1946年(同21)年に第5代総長に就任し、1954(同29)年までその任にありました。無意識の描写、見る者の認識を問う表現など、超現実的な画面を描きだすシュールレアリスム絵画は、時に異様な光景を見せることがあります。医学の専門家であった今村元総長が、描いた中村にその心境を尋ねたということは、作品に強くシュールレアリスムの要素が表れていたことを示す出来事と言えるでしょう。
このように中村は大阪大学で学び、制作する中で、小磯良平が伝えた「教養」を自らの芸術観を支えるものとしていきました。それは絵画の表現や芸術論、連作の理念にも反映されていくのです。
今回は中村氏と大阪大学との関係について改めて記述しました。次回は「帝国大学」出身という同様の経歴をもつ画家、美術家には、他にどのような人物がいるのかを探ってみたいと思います。
注
1)小磯良平「中村貞夫君の個展に際して」、第二回個展(東京梅田画廊、1965年)案内状の推薦文より。
2)当時の事情については以下の文献を参照。『大阪大学二十五年誌』大阪大学、1956年、92-93頁、および71-73頁。
3)中村貞夫「原先生の思い出」『GALLIA 原亨吉教授退官記念号』大阪大学フランス語フランス文学会、1983年、360頁。
4)足立巻一「〈アトリエ訪問〉 水を追求する中村貞夫」『木』No. 6、梅田画廊、1979年。ここでの言葉が、中村が寄稿した「原先生の思い出」(上掲書)に引用されている。
本稿(第14回)は『大阪大学総合学術博物館叢書15 精神と光彩の画家 中村貞夫―揺籃期から世界四大文明を超えて―』、(2018年4月)に掲載されたコラム1「小磯良平との出会い」、コラム4「中村芸術の揺籃」の一部を再構成したものです。
竹中哲也…姫路市立美術館、BBプラザ美術館にて学芸員として勤務。大阪大学総合学術博物館研究員として『洋画家 中村貞夫』展(2018年)を共同担当。同年、甲南女子大学非常勤講師として西洋美術史の講義を担当。2021年3月に大阪大学大学院文化表現論専攻、博士後期課程を単位修得満期退学。西洋美術史研究室在籍時から17世紀オランダ美術の近現代における受容史を研究対象としている。