竹中 哲也「帝国大学の画家たち 後編」

連載コラム「中村貞夫とその芸術」第16回

 

帝国大学の画家たち  後編

 

竹中哲也

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図1 京都大学文科大学研究室の一部(1917年) 京都大学大学文書館蔵

 帝国大学の設立順に沿えば、次は京都帝国大学になりますが、同校出身の画家には須田国太郎(1891-1961)がいます。1910(明治43)年、第三高等学校入学の頃より独学で油絵を描きはじめ、1913(大正2)年、京都帝国大学文科大学(現、文学部)に入学。哲学科にて美学美術史を専攻し、1916年に大学院に進みました(図1)。翌年、関西美術院でデッサン、洋画を基礎から学んでいます。1919年に渡欧して各国をめぐり、主としてスペインに滞在してプラド美術館ではエル・グレコやティントレットらの絵画を模写して、とりわけ西洋絵画の明暗表現を研究しました。1932(昭和7)年からは京都帝国大学文学部などで美術史を講じ、この年に銀座の資生堂で初めて個展を開催しています。1934年には新しい美術を探求する独立美術協会の会員となって毎年、作品を発表しました。褐色を主調として堅固に対象をとらえ、研究を反映させた暗色の画面をつくりだしています。『グレコ』(1939年)や『ゴヤ』(1946年)などの著作や西洋美術についての論文も多く執筆しました。

 

図2 須田国太郎「邯鄲」1942年、紙・鉛筆、大阪大学附属図書館蔵
図3 須田国太郎「江口」1936年、紙・鉛筆、大阪大学附属図書館蔵

 須田が描いた能、狂言のデッサンのうち5,000点あまりが、2001(平成13)年に大阪大学附属図書館に寄贈され、文学研究科にて目録が作成されました。現在はデジタル化されて、インターネット上で公開されており、多様な線による動きの描写を見ることができます(図2、3)1) 。2010年には、大阪大学総合学術博物館で開催された『線の表現力 アートの諸形態、須田国太郎《能・狂言デッサン》から広がって』で一部が展示され、また中村貞夫の木版画やスケッチなども出品されたことで、対象をとらえる画家たちの描写が「線」から研究されました 2)

 

図5 農学教室及び前庭(1926年頃) 北海道大学大学文書館蔵
図4 花弁園芸学専攻の農学実科生(温室にて、1926年頃) 北海道大学大学文書館蔵 左が直行

 最後になりますが、北海道帝国大学を卒業した画家に坂本直行(1906-1982)がいます。坂本龍馬が祖父の叔父にあたる直行は、1924(大正13)年に北海道帝国大学農学実科に入学し、この年に創部された山岳部に入部しました(図4、5)。大学卒業後は東京の園芸会社で勤務しますが、1929(昭和4)年に札幌に戻り、1936年に十勝の原野、日高の山にひかれて入植して、酪農と農業を生業としながら山へ足を運んでスケッチを続けました。1957年に初個展を、その後は札幌、東京にて定期的に個展を開催しています。1960年には開拓地を離れて画業に専念し、ネパールやカナダへのスケッチ旅行に出向きました。大学での学びや学生生活をインスピレーションとするように北海道の自然を愛し、生涯にわたるモティーフとして描き続けました。

 

図6 六花亭製菓株式会社の花柄包装紙(1961年)

 バターサンドなどのお菓子が知られる六花亭製菓株式会社では、直行が描いた花咲く山野草の絵をコラージュした「花柄包装紙」が1961年に完成し、現在まで使われています(図6)。のち1992年には坂本直行記念館が建てられました3)。また、北海道大学理学部本館の大会議室には直行による《初冬の黒岳》が掛けられてもいます (図7、8)4)。そして同総合博物館・北大山岳館では、2016年に『坂本直行生誕110年記念企画展示 直行さんのスケッチブック展』が開催されました5)

 

図7 北海道大学理学部本館大会議室(通常は非公開)
図8 坂本直行《初冬の黒岳》

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 この点では、大阪大学総合学術博物館でも2018年に『中村貞夫』展が開催され、他にも例えば大阪大学会館内の壁面には《富士〈春〉9》(図9)が、アセンブリー・ホールには《黄河三門峡・水〈河南省〉》(図10)が掛けられるなど、キャンパス内に数点の作品が展示されています。画家やその作品と母校が紡いできたエピソードが、これからも明らかにされていくでしょう。

 

図9 中村貞夫《富士〈春〉9》1983年、油彩・ボード、162.0×240.0cm

 大阪大学の中村貞夫、東京大学の児島喜久雄、髙島野十郎、京都大学の須田国太郎、北海道大学の坂本直行という5人の画家を紹介してきました。「帝国大学」と「画家」について考えるとき、大学での学びや研究から進み、のちに大学で教授した児島や須田のように、研究者、教育者としての役割を果たすことは望まれた姿であったのかもしれません。中村も1995(平成7)年から宝塚造形芸術大学(現、宝塚大学)の教授として教育に従事した点では共通してもいます。一方、髙島や坂本は独学で描き、大学、画壇から離れて独自の画風を確立していきました。その観察眼やモティーフとの親密な距離感は、学生生活から培われてきたものと言えるでしょう。中村も独学からはじめ、時に文学作品や哲学書からインスピレーションを得、作品発表は個展にかぎるなど、画家としてのスタイルに重なる部分があります。歩んだ背景と画業との関係性についてはまだ調査、研究の余地が残されていますが、彼らにとって学問や研究、部活動も含めて、大学で得た知と経験がそれぞれの芸術を支える重要な要素であることは間違いないでしょう。

 

図10 中村貞夫《黄河三門峡・水〈河南省〉》2007年、油彩・ボード、212.0×316.0cm (通常は非公開)

 本コラムで言及できたのは一握りの画家たちです。今回、名をあげることができなかった大学から輩出されて活躍している作家や、あるいは調査が進むことで、制作活動を行っていた人物が浮かびあがることもあるでしょう。美術の領域だけでなく、大学史においても現代の多様な価値観から見つめ直すことで、従来の史観では周縁にあった人物が評価されることは十分に考えられます。「帝国大学の画家たち」が描いた知から発される絵画のように、大学の学びを無二の力としていく美術家たちの未来の作品を楽しみにして、コラムをとじたいと思います。

 


1)大阪大学附属図書館ホームページ「須田国太郎 能・狂言デッサン」:https://www.library.osaka-u.ac.jp/web/e-rare/suda/
2)大阪大学総合学術博物館、第12回企画展『線の表現力 アートの諸形態、須田国太郎《能・狂言デッサン》から広がって』チラシ:https://www.museum.osaka-u.ac.jp/jp/exhibition/P12/SenChirashi.pdf
3)六花亭製菓株式会社ホームページ「六花の森」:https://www.rokkatei.co.jp/facilities/%e5%85%ad%e8%8a%b1%e3%81%ae%e6%a3%ae-2/
4)大会議室には直行の作品を含む10点の絵画が飾られています。北海道大学理学部ホームページ『彩』「理学部の逸品たち ~建物、研究室、絵画、俳句?~」註2、3参照:https://www2.sci.hokudai.ac.jp/sai/9321
5)北海道大学総合博物館ホームページ『坂本直行生誕110年記念企画展示「直行さんのスケッチブック展」』:https://www.museum.hokudai.ac.jp/display/special/11790/

 

挿図出典

1 京都大学大学文書館画像提供
2、3 大阪大学附属図書館画像提供
4、5 北海道大学大学文書館画像提供
6 六花亭製菓株式会社広報課画像提供
7、8 北海道大学理学・生命科学事務部画像提供
9、10 執筆者撮影

 

附記
コラム作成にあたり、数々のご教示とご助力をいただきました。坂本直行に関する資料と適切なご助言をいただいた北海道大学大学文書館の山本美穂子様、公開されていない作品の撮影、情報の確認など、惜しみなくご協力くださった北海道大学理学・生命科学事務部の皆様。そして貴重な画像や情報をご提供くださった六花亭製菓株式会社、京都大学大学文書館、大阪大学総合図書館のご厚意に心から感謝いたします。
最後に、本コラムの企画・編集者の武澤里映さん、橋爪節也先生、中村貞夫先生、そして数々のご教示とご配慮をいただきました横田洋先生に、この場を借りて厚く御礼を申し上げます。

 

竹中哲也…著作等。『精神と光彩の画家 中村貞夫 ―揺籃期から世界四大文明を超えて― 』橋爪節也、竹中哲也編著(2018年)。「書評 A Narrow Bridge 一本の細い橋――美術でひもとくオランダと日本の交流史」『適塾』No.53(2020年12月)。「明治、大正期における十七世紀オランダ美術の受容――フェルメール、レンブラントを中心に」『大正イマジュリィ』No.16(2021年11月発行予定)など。

 

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