サテライト展示

大阪大学中之島センター オープンスペース(1階、2階)

大阪中之島は1931年に開学した大阪大学の創立の地です。現在もその地にあり、大学の都心部の拠点として機能しているのが大阪大学中之島センターです。豊中キャンパス、吹田キャンパスへの移転以前、中之島には医学部と理学部の校舎が建ち並び、堂島川を挟んで対岸には医学部附属病院がありました。現在このエリアは美術館などが建ち並ぶ文化・芸術の一大拠点となっていますが、中之島センターにおいても各フロアに展示コーナーを設け、大学の歴史やさまざまな文化や芸術を紹介する展示を行なっています。また、本学の精神的源流である適塾と、その創始者である緒方洪庵をテーマとして、美術家の森村泰昌氏が制作された『適塾の集い』を、1階から2階への吹抜け壁面に常設展示しています。

 

主な展示品

大阪大学中之島センター(1階)

【重建懐徳堂瓦】 江戸時代の学問を支えた懐徳堂は、明治初めに閉校しましたが、大正時代に重建懐徳堂として再建され、近代大阪の人文学系学問の中心的な役割を担いました。1945年の大阪大空襲で大講堂などがあった木造校舎は焼失し、遺物は残されていないとされていました。しかし、近年関係者の自宅から焼け落ちた瓦の一部が発見され、大阪大学へ寄贈されました。瓦には江戸時代以来の懐徳堂の象徴である「學」の字が刻まれています。
【久留米藩蔵屋敷跡出土品】江戸時代の中之島には日本各地の藩の蔵屋敷が立ち並んでいました。諸大名は年貢米や特産品を大坂へ送り、それらを売却するなどの経済的な取引を中之島の蔵屋敷を拠点に行なっていました。大阪大学中之島センターは久留米藩と広島藩の蔵屋敷の跡地に建っています。このコーナーでは2001年から2002年に中之島センター建設用地において行われた発掘調査で出土した主に久留米藩の蔵屋敷の遺物を展示しています。
【 適塾記念センター所蔵の適塾関係資料】  昭和17年(1942)、適塾建物が大阪帝国大学に移管されたことを機に、福沢諭吉の書軸「適々」が寄贈されました。以来、大阪大学および適塾記念会により適塾関係資料が蒐集され、2011年からは新たに設立された大阪大学適塾記念センターが管理・活用しています。
  天保9年(1838)に蘭学者の緒方洪庵が大阪に開いた蘭学塾「適塾」では、橋本左内・大村益次郎・佐野常民・福沢諭吉等、日本の近代化に貢献した人材が学んでいます。彼らを含めた入門者が署名した門人帳「適々斎塾 姓名録」(複製)には、637名が署名しています。ここに名前のない塾生の存在も確かめられることから、適塾では千人以上が学んだと考えられます。
 洪庵は適塾での教育のほか、蘭医学研究と臨床に取り組みました。洪庵最大の研究業績は『扶氏経験遺訓』(1857-61)です。これはベルリン大学教授フーフェラントの内科医書のオランダ語訳を、20年がかりで翻訳・刊行したものです。臨床では安政5年(1858)にコレラのパンデミックが日本列島を襲来した際、多くの患者に対処しました。さらにはその経験を踏まえ、手許にあったカンスタット等の蘭書からコレラの対処法をまとめた『虎狼痢治準』を刊行しました。この書はわずか5~6日で執筆し、近隣の医者等に無償で配布されました。洪庵の社会的責任感が窺えます。

大阪大学中之島センター(2階)

【1970年日本万国博覧会関連展示】 中之島センター2階の空間でとりわけ異彩を放つ大型の人形は、人形作家で唐十郎の状況劇場の俳優であった四谷シモン(1944(昭和19)~ )が制作し、1970(昭和45)年の日本万国博覧会でせんい館のロビーに15体置かれたものの1体です。シュルレアリスムの巨匠ルネ・マグリットの作品に登場する山高帽子にフロックコートの男がモチーフです。会期中は、繊維に見立てた赤いレーザービームが頭部から出て“あやとり”をし、内蔵スピーカーから作曲家湯浅譲二による各国語による言葉が聞こえました。展示品は万博終了後、個人が所有し大阪の街角を飾っていましたが、近年大阪大学総合学術博物館の所蔵品となりました。その他には、ガラスケースのテーブル内に万博関連のチラシやパンフレットを展示しており、お食事や喫茶の合間にご鑑賞いただけます。
【大阪大学総合学術館所蔵の鉱物・化石】 大阪大学総合学術博物館に保管されている鉱物標本は、研究や教育のために活用されてきたものです。日本国内産のみならず、海外各地の標本も含まれる貴重なものです。平成までの約100 年間の長い期間にわたり継続的に蒐集されたもので約500 種、総数は約2000点にものぼります。大阪大学の前身のひとつである旧制大阪高等学校と旧制浪速高等学校の標本、教員の研究者が収集したコレクションなどからなりますが、ここでは、その中から、「大阪大学教員の鉱物コレクション」、「日本の国石・大阪の石」、「大阪周辺の鉱物・化石」を紹介します。特に大阪周辺の鉱物・化石の展示はユニークなものです。例えば、ここで紹介している多田銀銅山(兵庫県川西市、猪名川町および大阪府池田市)の鉱物は、豊臣家の繁栄を支えた大阪周辺の豊富な銀銅産出を象徴するものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

【手動製釘機の展示】中之島センター2階のエレベーターをでて真正面に位置するのが、モノづくりの街大阪で使われてきた手動製釘機です。1979年に梅棹忠夫(1920-2010、当時国立民族学博物館館長)が、国立産業技術史博物館を大阪・千里の万博記念公園内に招致することを提唱し、国立産業技術史博物館誘致促進協議会が結成され、多くの産業技術資料が収集されましたが博物館建設は実現せず、2009年にはその保管場所としていた大阪万博の鉄鋼館(現在のEXPO‘70パビリオン)が改修されることになりました。多くの実物資料が廃棄されてしまいましたが、いくつかの資料は保存され、この手動製釘機はその中のひとつです。また大阪大学総合学術博物館待兼山修学館には、ベルト掛け小型旋盤(大阪碌々商会製)が残されています。この機械は線材から釘を製造する機械で、元の所有者は大阪製鋲とみられます。
【今村輝久作品展示】カフェカウンター前に並んで3点展示されているのが、関西を代表する現代彫刻家の1人である今村輝久(1918-2004)の作品です。今村氏は大阪の伝統ある鋳物師の家に生まれ、金属を素材とした現代彫刻の旗手となりました。このように大阪の現代 アートの世界には伝統的なモノづくりの流れが息づいています。 『戦後の大阪を拠点に活躍した彫刻家である今村輝久は単純化された形態 – 真鍮、アルミニュームの鋳物+構築物 – に時間とエネルギーから生まれるある種の緊張感を封じ込め、凝縮させることを試みている。形態を素材自体の持つシンプルな色に制約することで、緊張感の中にボリュームを感じさせている。それは自然事象の観察者として対象のかたちを把握するという具象彫刻家として創作を始め、1950年代により本質を捉えようとする抽象彫刻に移行したという、その時の自らへの問いかけとその過程を経たことによってのみ到達することができた表現方法であると言えるであろう。(今村悦美※)※今村輝久氏のご息女』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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歴史展示室

大阪大学会館3階301号室にあります。一定期間ごとに展示内容を変更しています。


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眞島利行先生のウルシオール研究

理学研究科G棟1階のエレベーターホールにあります。眞島利行先生のウルシオール関係の研究について、常設の展示を行っています。


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マチカネワニ発掘の碑

マチカネワニ出土地点である、理学研究科A棟西側(本館玄関脇)にあります。


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44″(インチ)サイクロトロン 主電磁石

サイクロトロンは、陽子等の荷電粒子を高いエネルギーに加速する装置で、それを標的にぶつけて原子核反応を引き起こし、原子核や素粒子を研究します。


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