中村貞夫の視覚構造-「世界四大文明」シリーズにおける遠近を交錯する視界- 第2回
連載コラム「中村貞夫とその芸術」第9回
中村貞夫の視覚構造-「世界四大文明」シリーズにおける遠近を交錯する視界- 第2回
武澤里映
2. オルテガの「遠視法」と中村貞夫
オルテガ・イ・ガセットはスペインの哲学者であり、主著『大衆の反逆』から今回紹介する「美術における視点について」など、社会から芸術にいたる様々な主題について思索を残しました。今回は「美術における視点について」に出てくる「遠視法」という近さと遠さの循環する視覚についてまとめていきたいと思います。
オルテガは「美術における視点について」(1924)で、西洋絵画の視覚の発展を「近視法」と「遠視法」という区分によって説明しています1)。ここで言われる「近視法」や「遠視法」といった言葉は、木村による「近像」と「遠像」とおおよそ重なります。しかし注意しなければならないのは、オルテガは木村とは異なり視覚において重要なのは対象と視点の間の距離ではないとしていることです。そしてこれは、オルテガ独自の「遠視法」においては遠さと近さが最終的に転覆するという論点につながっていきます。では、そのような転覆する視覚とは、具体的にはどのようなものなのでしょうか。
オルテガが「近視法」と「遠視法」の2つの視覚の違いとして挙げるのは、対象に対する注目の度合いです。オルテガがいうには、「近視法」は視界の中のひとつの対象に注目し、「視覚的ヒエラルキーを強制する2)」一方、「遠視法」では、「すべての物が視覚的民主主義にひたりきった姿で現れ3)」ます。つまり、「近視法」では焦点がひとつの対象に限定されることで、それは視界の中で特権をもつものとして成立します。一方で「遠視法」においては、視界の中には様々な対象が入り込み、それらは「すべてが混然として、ほとんど不定形な背景と化す4)」のです。
しかし一方で、オルテガによれば、「遠視法」によって様々な対象全てを一度に捉えようとすればするほど、その視界の境界は、「半球を内側から眺めたときの形に似ている5)」ように広がります。「遠視法」によって、全体を捉えようとした視覚は、逆説的にも、「われわれの角膜が起点であるだけにより近くにある6)」。つまり、目の前の光景全体を捉えようとした「遠視法」的な視覚は、私たちの視界の境界までも捉え、視覚と眼球は一体化してむしろ新たな近さを獲得するのです。
オルテガは、以上のような「近視法」から「遠視法」を経てもう一度近さへ立ち戻っていく変遷を、西洋美術におけるクワトロチェントからルネサンスを経てベラスケスへとつながる道程にみます。(この変遷は、ベラスケス以降は印象派、キュビズムへとつながります。)

オルテガの説明は以下のようなものです。まず、15世紀の板絵などのフランドル人およびイタリア人による絵画(図1)は、遠くにいる人物像も近くの人物像も、まるで「画家がその人物像の立っている場所までゆき、近くから描写しながら画面には遠くにあるように描いたか7)」のようだと言われます。この段階では「遠視法」は見られず、画面は「近視法」によって統一されていると言えます。次の段階であるルネサンスの時期に特筆されるのは、「画面構成」です。たとえばレオナルド・ダ・ヴィンチの三角形の構図を持った作品は、視覚以外の幾何学的な構図によって支配されています。これらはまだ「遠視法」の条件を満たしているとはいえませんが、その萌芽は見えているとされます。そしてベラスケスの直前に位置するのが、エル・グレコなどのヴィネチア派です。オルテガによれば、ヴィネチア派の絵画はその初期から「遠視法」で絵画が描かれている一方で「近視法」的な見方を完全に捨て去っているわけではなく、その2つの視点が互いに戦い合っていると言われます。

そのような変遷の中でオルテガが「遠視法」の体現者として例に出すのが、ベラスケスです。ベラスケスは《ラス・メニ―ナス》(図2)などで有名なバロック期のスペインの画家ですが、オルテガによれば彼の初期作の時点ですでに「近視法」的な視覚は主な要素ではなくなったと言われます。ベラスケスの絵画では、対象をどう描くかではなく対象にどう光が当たっているかという、あくまでもベラスケス自身を起点として対象が描かれ、さらにその後視点は画家ベラスケス自身に固定されていきます。オルテガによれば、ベラスケスの絵画は焦点があった対象が多く存在する絵画ではなく「唯一の視点から、全体としてしかも一目のもとに眺めることができるようになった8)」絵画なのだと説明されます。
今回のコラムでは、オルテガの「遠視法」についての論点をまとめました。遠い視覚と言いながらも、むしろ眼球のほうに近づき全く新しい近さを獲得する「遠視法」でしたが、この視覚についての考えを用い中村貞夫の絵画を見てみるとどんなことがわかるでしょうか。次回は、いよいよ中村貞夫の四大文明シリーズを、今回紹介したオルテガの「遠視法」で読みほどいてみたいと思います。そこからわかるのは、こうした「遠視法」のもつ近さと遠さの循環する関係性が、そのまま中村貞夫の画業にも通じているということです。
注
1) オルテガ(神吉敬三訳)「美術における視点について」『オルテガ著作集 3』、白水社、1998年、11~34頁。
2) 同上、14頁。
3) 同上、15頁。
4) 同上。
5) 同前、17頁。
6) 同上。
7) 同上、19頁。
8) 同上、27頁。
図
1 フラ・アンジェリコ《受胎告知The Annunciation》、1430-32、テンペラ、板 154 x 194 cm プラド美術館、出典「Web Gallery of Art」、 https://www.wga.hu/index1.html、2020年11月5日閲覧。
2 ベラスケス《ラス・メニ―ナス Las Meninas or The Family of Philip IV》、1656-57 油彩・キャンバス 318 x 276 cm プラド美術館、出典「Web Gallery of Art」 https://www.wga.hu/index1.html、2020年11月5日閲覧。
武澤里映…大阪大学文学部人文学科美学専修4年。2018年に行われた「中村貞夫」展では、展示準備や図録などに携わる。現在はインスタレーションという芸術形式への関心から、主に戦後美術史を研究している。