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2.
 

3.

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4.
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5.
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6.
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7.
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8.
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10.
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11.
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12.
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13.
  時間と空間の知覚:知と行動の科学

14.
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15.
  出版活動
 
2. 貨幣と空間、そして時間
―藩札の形成、流通、銷却:故作道洋太郎名誉教授遺贈資料より―

経済学研究科 / 宮本 又郎、中林 真幸
「藩札」とは、江戸期において諸藩が発行した紙幣の総称である。江戸期の法定通貨は幕府の発行する金貨、銀貨、銭貨であったが、藩札はその代用貨幣として、発行する藩領内に流通を限ることを条件として、幕府の許可を得て発行された。

藩札の多くは藩の財政赤字を補填することを直接の目的として発行され、その信用不足から地域経済を動揺させることもあったが、信用を得て流通するようになると、幕府の通貨供給不足を補い、地域の経済成長を促す役割も帯びるようになった。

明治維新後、原則として紙幣を発行しなかった幕府と異なり、維新政府は政府紙幣を発行するとともに、藩札と政府紙幣の交換による銷却が進めた。こうして流通貨幣不足を補う藩札の機能は、政府紙幣と、それを継承した日本銀行券に吸収され、一元的な通貨制度が確立したのである。
故作道洋太郎名誉教授と藩札関係史料
故作道洋太郎名誉教授(1951〜88年の期間本学経済学部に在職。2005年2月4日逝去)は藩札研究の第一人者として知られ、その著書『日本貨幣金融史の研究』(未来社、1961年)はこの分野の古典的名著とされている。

本展示は、作道名誉教授が長年にわたって収集されてきた千数百点に上る藩札関係史料が御遺族から本学大学院経済学研究科に寄贈されたことを記念して、そのごく一部を紹介するものである。                   
藩札発行の仕組み
藩札は、幕府貨幣である金貨、銀貨、銭貨を正貨とみなし、そのいずれかとの兌換(自由な交換)を保証する文言を印刷した証券であり、兌換を保証する幕府貨幣に応じて、金札、銀札、銭札と呼ばれた。現存する最古の藩札は1661(寛文元)年に越前福井藩が発行した銀札である。

藩札は札会所と呼ばれる機関によって発行された。札会所においては、藩当局によって配属された札奉行や札場目付の監督の下、領内外から登用された札元と呼ばれる豪商が発行業務を行った。

幕府は1707(宝永4)年に藩札の使用を禁じたが、1730(享保15)年に解禁するとともに藩札発行許可の基準を整備し、以後、藩札の流通は一層拡大した。多くの藩が領内通貨としては藩札のみを用いることを法制化したため、藩札は地域通貨として重要な位置を占めるようになった。
政府信用と商人信用
藩は半ば独立した地方政府として領国の統治権を持っていた。それゆえ、藩財政が逼迫し、正貨である幕府貨幣をもって財政支出を行うことが困難なとき、紙幣を発行してそれを正貨に代わる支払い手段として用い、その流通を強制させることができた。それが諸藩が藩札を発行したひとつの理由である。しかし、そのような場合には、藩財政がさらに悪化すると地方政府紙幣である藩札の信用が損なわれ、藩札の価格が暴落するという混乱も生じた。

藩札が円滑に流通していた諸藩の例を見ると、札元となった豪商が兌換を保証し、藩財政の短期的な動揺の波及を緩和していたり、あるいは藩専売と藩札の発行が組み合わされていたりなど、商人信用を裏付けに持っている場合が多い。たとえば、諸藩が大阪や江戸に向けて特産物を専売する藩専売において、買い上げの貨幣として藩札をもって支払い、一方、領民は貢租や運上金(租税)の支払いを藩札によって行う、といった循環ができあがると、藩札は地域通貨として安定的に流通するように
なった。

藩札の信用は、形式的には幕府貨幣との兌換の保証によって保たれることになっていたが、藩札が実際に信用されている地域においては藩札が単一通貨となっており、兌換が日常的に行われていたわけではない。藩札の信用は、実際には、商取引の裏付けを持つ証券であるか否かによって決まっていたのである。
地域経済への影響
財政規律が低下した藩においては藩札の信用が損なわれることがあり、そうした場合には藩札は地域経済を不安定化させる負の効果を持つことなるであろう。

しかし、多くの藩においては、むしろ経済成長を促進する効果を持った。幕府が発行する金貨、銀貨、銭貨の発行量は、近世期を通じた経済成長に対して絶対的に不足するようになった。幕府の貨幣改鋳による発行増はその不足を緩和したが、藩札の発行もまた、流通貨幣の不足を補い、デフレーションを回避する役割を担ったのである。

江戸時代に既に商品経済の発展していた西日本においては早くから多くの藩が藩札を発行しており、一方、東日本の諸藩については商品経済の発展が本格化する19世紀に入ってから藩札の発行が増加した。こうした推移にも、藩札が地域における市場経済の発展によって必要とされ、また地域経済の成長を促したことが示されている。

特に江戸期には、交通手段の制約から、全国の市場が完全には統合されていなかった。そのように地方市場が相対的に独立である場合には、地方政府が有力商人に対して領域内の独占的な紙幣発行権を認め、流通を制御することによって、その地域経済の実情にあった通貨圏をつくることが望ましいであろう。アメリカ合衆国の諸州においても、19世紀後半に至るまで、各州政府が認めた国法銀行による法定通貨が用いられ、地域経済の成長に貢献したが、近世日本の藩札もまた同様の機能を果たしたと見てよい。実際、1872年(明治5)に明治政府がアメリカの国法銀行に範をとって、各地に紙幣を発行する銀行を設立することを認めた国立銀行条例を定めたのも、藩札の果たしていた機能を認知していたからである。
藩札の銷却と近代幣制の確立
幕府が原則的に紙幣を発行しなかったのに対して、明治維新によって成立した新政府は、歳入不足を補うためもあって太政官札などの政府紙幣を発行した。さらに新政府は1871年に廃藩置県を断行するとともに藩札処分例を発し、藩札を政府紙幣と交換して銷却した。

さらに、1872年国立銀行条例によって第一国立銀行など4行の銀行が設立され、兌換紙幣である国立銀行券を発行した。1876年改正国立銀行条例は不換紙幣の発行を認め、これによって国立銀行は153行に増加し、各地の地域経済に対する貨幣供給を担った。藩札の機能は国立銀行に継承されたのである。

そして1882年に日本銀行が設立されるにともなって1883年に国立銀行条例は再改正され、紙幣は日本銀行が排他的に発行し、国立銀行は普通銀行に転換することとなった。

日本銀行券はかつての幕府貨幣と同様に価値の安定した貨幣となったが、同時に、日本銀行は経済発展に応じて紙幣発行高を増加させ、かつての藩札と同様に成長を促した。